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内外発的開発記録。有毒だけれど、色鮮やか。クロームイエローは山吹色です。

映画 KOTOKO 感想。ネタバレあり。

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KOTOKOを観た。

とりあえず、4回くらい泣いた(´;ω;`)

 

これといった泣かせどころがあるでなく。

たぶん、観る人の思い入れとかその時の精神状態で、響くところは違うんでしょう。

あんまり自宅のテレビで観る類じゃない。映画館で観るべきだろうな。

非日常性に自分を浸していないと、なかなか私もしんどい。

 

ところで、cocco×塚本晋也ということで判断できるだろうけど、

万人受けする映画ではない。

映画ってのは、基本的には、娯楽として観る人が多いと思う。でも、それが全てではなくて。

これは映画だけれど、エンターテイメントではない。

ドキュメントではないけど、限りなくノンフィクション。

いや、これは、たぶん。ひとつの文学と言っても差し支えないと思う。

 

この映画は、共感もしくは共鳴レベルで感情移入できるかどうかが

すごく分かれる作品である。

自分自身に、主人公が抱くような要素がないと思う人でも、

身の回りに、こういう不安定な人がいるってことは案外あるんじゃないかと思う。

そういう人には、ぜひ見届けて欲しい描写がたくさんある。

 

塚本晋也監督のファンは、観て大丈夫。

塚本監督のファンは、たぶん、ある程度の心の強度を持っているはずだから。

そこかしこに観られる、ファンと標榜する人の顔ぶれとかブログとかを読んで、

かつ自分も判断基準として含んで、たぶん、大丈夫。

 

大丈夫、というのは、観て、得るもの・震えるもの・響くものが

必ずある、という意味。ぜひ観るべき。

 

逆に、coccoという音楽のファンには、あまり勧められない。

特に初期の頃からのファンで、心の安定を保つのが難しくて、彼女の歌に

救いを求めたり・見出したり。

そんな風にしている人には、ショック療法的な意味でしか勧められない。

 

心が安らかで健やかで、真摯に人と向き合える人。

そういう人にはオススメしたい。

 

重たい話は重たい話として受け止め。

それを軽やかに話せるくらいに昇華している人には、ぜひオススメしたい。

重たい話を重たく語るのは嫌なんです、という中途半端さなら要らない。

 

「それは心の病なので治療が必要です」という風に突き放すのではなく、

苦しみを知っているアナタだからこそ、穏やかに生を送って欲しい。

そのために治療という選択肢がある、という風に。

 

実際はそんな風に言えるもんじゃないよ、たぶんね。

でも、そうありたい、という自分自身の祈りも込めて。

 

ところで。

私自身、coccoちゃんの、コアなファンの類に入ると思う。

デビュー当時からずっと追っていて、クムイウタツアーとかは、全国5都市だったかな、全部行った。

新曲の風化風葬を、最終公演ではすっかり一緒に歌えていて、

アルバム収録された時に、ものすごく懐かしく思った記憶がある。

 

活動休止、その経緯~活動再開~今に至る、まで。

ある程度の情報は必ず仕入れてきている。

なんで、今回の映画についても、ネタバレ以外の事前情報は得た上で観賞した。

 

そうでないと、色々と苦しかっただけかもしれない。

事前情報があったからこそ、解釈できた部分がかなりあった。

オチに納得できるかの如何は、この事前情報があったからこそだと。

 

そんなところで、ここからが本題。

長い前フリだこと。

 

映画見てない人はこっから先読まないほうがいいよー

 

見終わってから、ネタバレをいくつか読んでみた。

 

精神障害に理解のある人、理解しようとしている人、全くないし考えもしない人

イコール

coccoのファン、塚本監督のファン、その他

 

こんな風に分けても良さそうだ。大雑把だけど、たぶん外れてない。

とはいえ、共通しているのは、「強烈な存在感」。

細かくネタバレを書いてみようかと思ったけど、やっぱり、個人的な印象に残った

部分について書いていこうと思った。

どのシーンを、どういうふうに解釈したのかが、人によって知りたいことな気がしたので。

 

知識の有無で、前半は「???」が浮かぶか「うはぁ~・・・」となるかは分かれるが、ぶっちゃけ

前半は、ほぼ、「精神障害者(しかもたぶん結構重度)の日常」です。

(知識のない人にはホラーかもしれない。

coccoちゃんのお顔自体、かなり強烈だし撮影時にリアルに腕は切っただろうし。)

 

世界が2つに見える=虚構と現実の世界

もちろん虚構の世界は主人公KOTOKOのみが見ている世界で、彼女が創りだしたもの。

彼女だけの世界。

いわゆるひとつの統合失調症における妄想状態を、表していると考えていい。

たぶん、重度とは思わないけれど、coccoちゃん自身にも起こっている・もしくは起こっていたことなんだろうと勝手に邪推している。

 

ただ、彼女だけの世界を、存在しないものと切り捨ててはいけない。

彼女にとってはそれが現実の世界。

他者と共有できる世界だけが現実などと、切り捨ててはいけないのだ。

 

coccoの歌のファンである私としては、

歌を歌っている時だけは世界がひとつになる、という言葉は

歌の世界=彼女の世界に私達を引きこんでいるからだ、という解釈が出来る。

それは他ならない彼女だけの世界。切り捨てては、決して、触れることのできない世界。

 

虚構の世界があるからこそ、coccoという存在は成立する。

 

ただ、それは。

 

とても、悲しい事実だ。

 

たぶん彼女なら。穏やかな暮らしの中に、穏やかな歌を産むことが出来るだろうし、

そうなって初めて、人を選ばない歌が、誰にでも響く歌が産まれてくるんだろうと

確信することができるから。

 

そんなファン意識丸出しな解釈はさておき。

 

前半に限らず、KOTOKOのアップを長いカットで映す場面があるのだけど

かなり、画面がぶれる。結構ブレる。かなり、酔いそうになる。

この点については、鉄男3の時もそうだったので覚悟はしていたけど

やっぱりもう少し抑えて欲しかった。

 

さて。

塚本監督演じる、田中という男。

どこのあらすじでも、存在が最終的には怪しいような書き方がされている。

 

なので、ぶっちゃける。

 

田中は、現れて、消える。

KOTOKOの心に平穏を取り戻して、消える。

 

理由も解らず、存在すら本当にあったのかすら疑わしく。

 

田中は存在したのか。虚構の存在だったのか。なぜ消えたのか。

これをどう解釈するべきか。

 

この映画は、3.11を挟んで、撮影が行われている。

正確には、冬に制作に入り、クランク・インの安全祈願を行った当日に、震災が発生したそうだ。

 

3.11の時、多くのミュージシャン・アーティストが声を上げ、行動を起こした。

もちろんcoccoちゃんもだ。

彼女は自主制作映画を公開して売上金を全額支援金にしたり、直接現地に出向いている。

そんなニュースを目にする度、個人的に、「coccoちゃん大丈夫かなぁ」というのがあった。

 

ショックを受けないはずはなくて、むしろ、どれだけ大きな負のエネルギーを受け取るのだろうか、と心配したりしていた。

でもたぶん、自分のことはそっちのけで、自分ができることをやろうとするんだろうなと。

そんで後になって蓄積されたダメージを食うんだろうなぁ、などと。

 

まぁそんな、自分を棚に上げた心配をしていた。

 

で、作中にちょこちょこと、過去の大事件をモチーフとした

ニュースが流れる。

そのひとつに、震災後の枝野んの会見に似たものも流れる。

 

この映画は、3.11後の日本の空気を、とても意識している。

たぶん、ある程度、脚本が書き換わっている。そのはずだ。

最後のオチが変わってるんじゃないか?とすら思う。

 

田中が突然消えたことと、震災が起こったことは、無関係じゃない。

 

そんな風に私の中では、結びついた。

 

KOTOKOは、息子を守ろうとして、精神の均衡を崩していく。

KOTOKOは、あくまで、守るものでありたいと・そうあるべきと、自分に課しているのではないだろうか。

 

田中は、そんなKOTOKOを守ろうとする。

KOTOKOからどんな暴力を受けようが、

その暴力によってKOTOKO自身が苛まれようが、

「大丈夫・大丈夫・大丈夫」と、KOTOKOを守る。受け止める。

 

KOTOKOは初めて、守られる存在となる。

自分の存在を全部受け止めてもらったことで、初めて、守られる存在となる。

 

そうして、いつしか、KOTOKOの世界はひとつになっていた。

 

(そんな彼女が歌う「のの様」

このパフォーマンスを観て、心打たれない人はたぶん存在しない。

キツイと感じる人は多いかもしれないけどそれは否定の理由にならない。)

 

ところが、田中は消える。

息子がKOTOKOの元に戻ってくることが決定した報を受け取ると同時に

田中は消える。唐突に。

 

このタイミングは必然なのか、偶然か、結果的に一致しただけか。

それともKOTOKO自身が息子が帰ってくるから、

田中を必要としなくなったからこそ、消えたのか。

 

そこは作中では一切示されない。

 

そしてKOTOKOの世界はまた2つになる。

あまつさえ、今度は、息子さえ2つに見える。

暴力に溢れたこの(KOTOKOにとっての?)世界で、

彼女は自分の手の届かない所で息子が死ぬのは許せないという。

「絶対に、許せない」と。

 

彼女は、自分の手で息子の命を絶とうと、首に手を掛ける。

それが、彼女の守る形だった。

ちなみに、彼女の楽曲のひとつに、heaven's hellというのがある。

歌い出しが、こう始まる

 

今 やっと 首に手をかけ

優しい話手繰ろうと

そう、あれは終末の鐘

鳴らせ どうせ 聞こえない

 

そのシーンそのものに観えて、いろいろと、震えた。

 

守るものとして存在すると、世界はふたつに割れる

守られるものとして存在できれば、世界はひとつになる。

 

彼女を受け入れられる器を持った人間ってのが、それがどれだけ得難い存在か

彼女自身が一番良く解っていて。

彼女自身の器は、とても、とてつもなく、深いのだ。

 

世界はそんなに、彼女に冷たくないと私は思いたくて。

だから、田中って存在は描かれた。そう思いたくて。

だけど、3.11の震災は、その希望すら儚いものだと。

 

この世はどこまでも理不尽で、救いを求めるなんてことは本当に本当に難しくて

何が起こるか分からない世界になってしまったのだと。

 

だから、田中は消えた。

妄想だろうと実際の存在だろうと、彼女の世界をひとつにした、田中は消えた。

 

彼女は一度救われた。

だけど、また、救いのない世界に叩き落された。より深く、より暗いところへ。

 

息子を殺した後、KOTOKOは壊れる。

次に意識を取り戻したのは、真っ白な世界。

いわゆる精神病院で、だった。

 

痩せ細り、目の下も落ち窪み、クマまで作り

タバコを吸いに病院の外へ出る。

 

雨の中、彼女は踊る。

これが販促ポスターにも用いられたシーンだけど、のの様以上に、心を打つ。

もぅここまで来ると、KOTOKOなんだかcoccoなんだか、分ける意味あるのかね?とすら思えてくる(笑)。

このシーンは本当に言葉を紡げば紡ぐほど、ただ野暮なだけだ。

 

KOTOKOは精神病院に収容された。

これをどういう風に解釈するのかは、難しいところだと思う。

病院に入ったのが彼女の救いなのか?

世界はふたつのまんまなのじゃないか?

何にも解決していなくない?

 

息子、会いに来ます。

「息子が面接に来る。生きてたの?一体今は・・いつ?」

というKOTOKO自身の呟き。

 

息子、母親の状況を理解して、会いに来てます。

中学生くらいでしょう。

たわいない自分の日常の話を聞かせて、母親との思い出にある、折り紙の鶴を折って、置いて帰ります。

「母さん、また来るね」と。

 

KOTOKO、面接中、鼻水だらだら垂らしながら泣きながら、黙って

ずーっとうつむいてますが、最後、息子の帰る姿を見送るために立ち上がります。

 

窓から、息子を見送るKOTOKO

息子も気づいて、手を振ります。

 

帰る道の曲がり角で、息子の姿が見えなくなるのですが、

息子、ちょっとタイミングを見計らって、再び姿を表します。腕だけ、ですが。

そして、バイバイ、と。

 

 

そう。

このシーンを再現するためだけに、精神病院に収容という形にしたのではないか。

そんな風に思ってしまうほど、このなんともないシーンで心が震えた。

 

これは、息子と離れていたKOTOKOが、面会を許されて会いに行き。

調子がいい日々、少しだけ平穏な日々を少しだけ過ごし。

でもまた離れ離れにならないといけない日が来て。

 

その別れ際、彼女は見送る息子に、同じ事をしたのです。

 

息子にとって彼女は、虚構の存在などではなかった。

彼女のしたことが、息子の中に、残っていた。

 

ただそれだけなんだけど、もぅここまでの訳解んなさが、どうでも良くなった。

 

ほんのちょっとのことが、観客に救いをもたらすように終わるのは

塚本映画の真骨頂かと。

 

この映画のキャッチは、「生きろ、生きろ、生きろ」

明示的に示されはしないけれど、精神病院に収容されたKOTOKOにも

やはりこの声は残っていて。

 

体は生きろと言う。

それを実感するためにセルフハームをする、というのはKOTOKOではない

他ならぬcoccoちゃん自身。

 

「生きるということは、とても激しいものだ。

Coccoが歌う歌がそうであるかのように」

塚本監督がそう表現するように、Coccoちゃんは真摯で、激しい。

 

 

いつか、彼女の人生に、平穏が訪れますように。

 

 

最後に。

自分が母になった時に、改めて観たい映画です。