死の壁 養老 孟司著 ちょっとレビュー
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孤独死は悪くない死に方だという主張を、目にしたことがあった。
主張の深い所はわからないのだけれど、それは家族の問題であり、
死んで腐ってドロドロになって、異臭なんかでようやく発見されたとしても
それは専門で掃除する業者がいるのだから、大した問題じゃないという。
正直、その回路がよくわからなかった。
昨今、医療技術の発達により、介護の時間が長くなって
昔のようにぽっくり逝くことも少なくなり、
いろんな面での負担が増えるということは、ちょっと伺える。
病院給食の勤め人にそんな所を話してみると、
「まだまだ認識が甘いな。自分の意志で入院してる人なんて3割もいないぞ。」
と、言われた。
曰く、
「孤独死に至る過程は、自分の選んだもの。それが不幸であるはずがない。それが選んだ人生ってこと。納得の上にそうなってる孤独死してるはずだろ」
だそうだ。
(ただし、事故や急病ってのはまぁ、ちょっと同情する余地はあるかもしらんけど・・・と日よってはいた(笑))
そう聞いて、そう言われて。
やはり納得できなかった。理解はしている。それでも、何かが腑に落ちない。
さらに議論を進めてみて、中途経過はあちこち行ったので省略して
至った個人的結論が、この著書、死の壁に出てくる
「死というものが遠ざけられた社会になった」ということだったように思う。
実際に、私が自宅で急死したとして。
私の身体が腐って悪臭を放つようになってようやく大家さんが中を見に来て発見されたりとして。
それはやっぱり、そこにあってはいけないものだ。
そこにあるべき形ではなくなったものだ。
自分で選んだ選択で、人生の終わりを独りで迎えるとしたら、そこに異論はない。
自分が下した選択の結果で、幸も不幸も、他人にどーのこーの言われる所以はない。
自分自身の納得だけが、問題だろう。
などと考えているうちに、ただ単純に、
自分の亡骸を自分の人生に関わりのないところへ晒すのは
抵抗があることに気づいた。
最期を誰かに看取って欲しいとかってのは分からない。
正直、そこまでの実感が湧いてこないから。
ただ、そこかしこに死が存在していた時代を私は知らない。
不幸があった時に、初めて、そのための場が設えられて、死と対面する。
それは限りなく、非日常に近いものだ。
人の死=亡骸=非日常と日常を共に出来ない。
孤独死は、非日常である亡骸の自分を日常の生活に晒すことになる可能性が極めて高い。
自分の体がドロドロに腐った状態を自分が知らない関わりのない人間に発見されて処理されること。
それが嫌だということに至った。
孤独死が悪い死に方かどうかは、周りに決められる問題じゃない。
孤独のうち死ぬか、孤独を選んで死ぬか、どちらも孤独死と呼ばれるのだ。
だから、孤独死が悪い死に方じゃない、ということには異論はない。
実際に、本当に、納得して孤独死していく幸福な人がどんだけ居るのか、甚だ疑問はあるけども。
さてさて。
死んだあとにも、考慮して生きないとならない。
しんどい時代だなぁ、と思うのは私だけだろうか。